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「見る」とか「観察者」という意識について

よく思いを「見る」とか「観察者」の意識を持つとか言いますが、その際に陥りやすいのは、「見えるもの」に意識をおきすぎるというか、見えるものや見る事に執着すること。

そうではなく、まず「在る」という意識というか感覚が大事かと思います。「在る」から「見える」。

見える景色ではなく、見ているものに意識を置く。

真我は存在するもので、“見える”ものではない。
プレゼンス(存在)の世界。

あくまでも真我に集中することが肝要。
見えるものはどうでもいい。

「見る」という行為があると、常に「見る人」がいるはずで、それは自我の世界。
自我を基盤として、瞑想法等でその上にどんな世界を作り上げても、しょせんは自我の遊びに過ぎないし、その集中が止まれば、常に自我の自分に戻ってくる。

確かパパジが言っていたけど、「至福を体験することではなく、私が至福である!」ということ。


それと「観察者」とは「傍観者」ではない。
分離感というか距離感を持つと罠にはまってます。
これこそが自我の世界、二元論の世界(私と他者というやつ)。

いい例えかどうか分かりませんが、私のイメージとしては、野に立ち、雨が降ろうが、嵐が来ようが、日が照ろうが、全てを受け入れ、体験しつつもただ立っているような感じ。
遠くからそういう状況を離れて見てる感じではないです。

悪い思いが浮かんだ時、ちょっとでも逃げたり、避ける感覚があればダメです。
また、いい思いが浮かんだ時、それに酔うのもダメ。
全てを突き放して見るのも違います。

意図する世界は一体感で、距離のある分離感ではないから。

ちょっと小難しい話しになったけど、でもそんなの関係ない


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コメント

なるほど

MAXIさんはじめまして。

>体験しつつもただ立っているような感じ。
>遠くからそういう状況を離れて見てる感じではないです。

なるほど。腑に落ちました。
ありがとうございます。

suhoさん

suhoさん、
初めまして。

>なるほど。腑に落ちました。
>ありがとうございます。

私の言うことを鵜呑みにしたらダメですよ!
あくまで“いたらんMaxiのひとり言”ですから^^

御自身の体験を大切にするのが大事だと思います。

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このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

まずはそもそも「在る」ということだけが「在る」・・・ここで「何が?」と考えるべきではない、「何が?」の方はもう無限に作り出せますからね(笑)

私の見解としては、「神」=「在る」=「至福」=「私」という感じ・・・言葉にするとこういう風に4つに解れて、それがイコールという表現ですが、一つのことが違う言葉で表されているのですね。

シリウス・マハナンダさん

おっしゃるとおりだと思います。v-290

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