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“真我体験”について 

私の体験が「真我体験」であるかどうか、異論があるかもしれませんが、ここはあくまで“Maxi's World”なんで、どうぞ御容赦を。
私自身はもう言葉や概念に対するとらわれはないので、なんでもあり。

体験後、思ったというか、感じたのは、イエス・キリストが聖書で言っている事は、真我と一体になった後感じた事を述べているんだなぁと。

隣人を愛せよとか色んなメッセージがあるけれど、人は概してそれをキリストの教えとして、しないといけない事だと受け取るけれど、それらは真我と一体となった後、自然と湧きあがるものであって、真我探求の方法ではない。それを実行したからと言って、真我を体験出来るわけではないんじゃないかと思います。
(イエス・キリストについて書くのは、私なんぞにはあまりにも恐れ多くて、手が震える思いですが、思っちゃったんだから仕方がない。)

私見ですが、ラマナ・マハリシとエックハルト・トールの真我体験の方法(というより、プロセスのほうが良いかもしれません)は同じじゃないかと思います。

ラマナは子供の時に叔父が亡くなり、「死」への恐怖感が沸き起こった。「自分が死ぬ!」という恐怖感から逃げずに、床に横たわり、それを体験した。そうしたら、「誰が死ぬのか?」という思いが湧きあがり、死ぬかもしれない「私」というのに意識を向けたら、それが実在しない事に気づき、真我に目覚めた。

エックハルト・トールは人生に絶望したのか、どういう理由かわかりませんが、死のうと思い、自殺を考えた。その時に「私」が「私」を殺そうとしていることに気づき、「私」が二人いる!ことに気づいた。そこでまた「私」が二人いることはありえない!ならばどちらかが嘘、幻だと気づき、真我に目覚めた。

ここまで書いて「はた!?」と気づいたのは、概して真我体験の後に見える景色を、皆述べているようで、そのプロセスを書いてはいない。

プロセスに重点をおくのではなく、あくまでも「真我」に重きをおき、それになりきりなさいと。愛、静寂、プレゼンス(存在感)等々。

プロセス自体は至ってシンプル。
『「私」という存在を見つめる』。
ただそれだけ。

しかし、その際たとえどんな感情が起こったとしても、一切逃げない覚悟が必要。悲しみであれ、絶望感であれ、誰もが持っていて、一番核となる「死」への恐怖感。それらから一切逃げずに体験する。

あるいは、真我への願望や期待、「あの世」や「霊・魂の世界」へのあこがれや期待も、「百害あって一利なし」。これらは全て「今」という瞬間から離れた、実在しないものなので、それらにちょっとでも意識があると、今ここにある「私」を見つめることの妨げになる。


こういう事を書いていると、どんどん出てきて止まらなくなって、色んな事が思い浮かんでくるわで、「こりゃぁ、本でも書かんとおさまらないな」と思ったり。
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コメント

ookuwaさん

ookuwaさんは御自身が信じた道を行かれてください。

ラマナの恩寵v-353がありますように。

m(_ _)m

Maxiさんにとって必要のないコメントをしてしまったみたいですね。
申し訳ありませんでした。以後、気を付けます。
先ほど書いたコメントは削除しておきます。

私は、私の信ずる道を進みます。


Maxiさんの信ずるすべてから恩寵がありますように。

では、失礼致します。

No title

>一切逃げない覚悟が必要。
うんうん。よく解ります。
「本当に自分に正直になった」つもりになって、
大抵は逃げてるのよねv-73

Maxiさん本書けばいいのに~v-46

rottie.さん

>「本当に自分に正直になった」つもりになって、
大抵は逃げてるのよね
全くそのとおりだと思います。
あまいもんじゃないです。

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