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神の対象化の中止

シリウス・マハナンダさんがラマナ・マハルシの臨在のサイトで、パパジの「真理のみ」を翻訳したものを公開されています。
1998年に自費出版されたものを、崎山綾子さんが再度構成・翻訳されており、随時更新されています。
詳しくは下記のリンクをご覧ください。
http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/truthis-holder/sinrinomi-map.htm

今回紹介したのはその一部です。

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なぜ神を対象化するのか?
「それ」を主体化しなさい。
光に向かって真っ直ぐに進みなさい。「それ」の中にまっ先に飛び込むのだ。
旅の途中でそれについて記事を書いたりしないことだ。
静かにして、疑いをもて遊ばないこと、欲望を起こさないこと。
すべての対象を取り除き、「それ」として滞まりなさい。
すべての苦痛は対象化することからやって来る。
エゴに自由を所有させないこと。
だから、真理を対象化しないこと。
それを獲得とか取得と呼ばないこと。
ただそれと一つになりなさい。
顔を鏡で見るとき起こるようにそれにただ合一化しなさい。
マインドと呼ばれる訪問者を忘れて、ただ「それ」と一体になりなさい。



あなたでないものだけを経験することができる。
一時的なものだけが経験される、
なぜなら、経験者そのものが一時的な存在だからだ。
経験、名前、そして形態の概念を捨てなさい。
名前や形態に触れないで、ただ見ていなさい。
「私」と口走ると、すべての対象があらわれる。
「私」を見つめるとすべてが消え去る。
「私」に「私」を見つけさせなさい。
真我探求は最初に「私」、経験者を対象化し
「私」を対象化した「主体」を見つめることだ。
主体を対象化する更なる「主体」は誰かと自問しなさい。
この「主体」が「見ている人」だ。



私のマスター、ラマナ・マハルシは私に言った、
「神は見られる対象ではない。神は主体だ。
神を見ることはできない。神は『見ている人』だ。
この『見ている人』を見つけなさい。」
その時、私のハートは開いた。
「『見ている人』を見つけなさい。」
これが教訓である。



真我は主体よりも以前に存在する。
それ故、誰が何に集中するのか?
主体の「私」は夢を見ているに違いない、
夢を真実だと受け入れないことだ。
一瞬、一つの思考でさえ起こさずにいることで目覚めなさい。
一つの思考でさえ「それ」を汚してしまうほど
「それ」は潔癖だ。



心の習癖は対象化すること、二元性を投影することだ。
自問で心の動きを支配しなさい。
私は「ここ」にいると悟りなさい、
これが心の動きを止める。



心が静かになればすべてが真我だ。
心が動くと世界が現われる。
だから静かにしてすべてを投げ捨てて自由になりなさい。
そのとき心は潔癖で、あらゆる存在に真我を見るだろう。
肉体の目で見ることをやめると聖なる目が開く。



心を静めるためには「私」の源泉を尋ねなさい。
来ることもないし、去ることもない「それ」を見つけだして 
「それ」として在りなさい。
心が動くのは何かに執着しているときだけだ。
だから心にとって親密なものを避けなさい。
執着を引き離して、静寂を保つことで
気づきー在ることー幸福に戻ると決心しなさい。
心が存在に触れると存在になる。
自由の観念が束縛の観念を取り除く。
その時、古い習癖の観念に呼び戻されないように全力を尽くしなさい。
そして「自由」そのものに溶け込みなさい。



考えることが世界を創り出す。
思考と思考のギャップが「今」、これが「自由」だ。
考えないということは心を活動させないということだ。
考えないこと、思考からの自由が「自由」だ。
思考がやってくるなら、こさせなさい。
思考が行くなら行かせなさい。
自由という観念がないことが「自由」だ。
自由への意図がないのが「自由」だ。
本当の真我探求は考えることで心を活動させることではない。
考えたいのなら真我のことだけ考えなさい。
これが最良の修練だ。
これは海として留まって波を起こさせるようなものだ。
目覚めの状態の最初と最後の思考は「私は誰か」であらねばならない。
単に静かにしていて何が起こるか見てごらん。
この見ていることが在ることだ。



心を使わねばならないとき、心は眠りに陥る。
これを避けなさい、眠りは罠だ。
あなたが深く海にもぐって探している真珠に、努力せず意識を集中し続けなさい。



理解することは、対象化することだ。
理解を捨て去ることによって真我を顕にしなさい。
すべての質問や答えはエゴからやって来るのだから
努力することや理解することによってその源泉を見つけることはできない。
エゴがどこからやって来るのか見つけなさい。
そうするとそれは消え去るだろう。
エゴは破壊されねばならない。
考えることをスットプしなければならない。
今、それをやりなさい、
説明できない「それ」を、理解、視覚、触覚を超えた「それ」を切望しなさい、
「私は存在しない」という観念を投げ捨ててそれをやりなさい。
観念という観念も取り除きなさい。 
知識の最終目的地は言葉も含めてすべての知識を忘れることだ。
書物を持ち歩くのは、ロバがスートラを持ち運ぶようなものだ。
多くの聖者は文盲だ。
絵の中の炎が茶を湧かすことができないように知的な理解は十分ではない。
知的な理解はメニューを読んでいるようなもので
本当に体験することは、食べ物を食べることだ。
理解のすべては「それ」の美味に比べたら、ひからびた残り物だ。



存在-意識-至福。
エゴ-マインド-知性がこの言葉を聞く。
それらに邪魔をさせないことだ、あなたが聞いたことを分析しないことだ。
無について考えることは、無から抜け出すことだ。
自由について話すのは牢獄者だけ、
いつも自由でいる人は自由については語らない。
話される自由はそれから自由になる為の束縛が必要だ。
あなたの自身の真我を探求して自由になりなさい。



この自由は言葉では言い表すことができない。
最良の表現は 真我の至福に酔っぱらった
その人の目の中に、歩き方の中に現われている。
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