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エネルギーに敏感なのも、良し悪しやなぁ~

私は別段霊能力があるわけでもなし、見えたりしないから、そういうのとは関係無いとずっと思っていたけど、結構感じているなとつくづく思う今日この頃。

作品を見たら作者の心相風景を感じたりしますが、こういうポジティブなやつはいいんだけど、エネルギーにはもちろんポジティブなやつもネガティブなやつもあるわけで、そういうのはちょっとねぇ・・・。

ある人からメールをもらったわけですが、タイトルからしてちょっと変な雰囲気が。
開いた瞬間、まだ読んでもない時から、ものすごいネガティブな波動が来てビックリしてしまった。
読むともちろんそういう内容でしたが、とにかくその強力でネガティブな波動を感じたことに驚いた。

今まではどちらかというと頭ですぐ反応し、相手を責めたり色んな思いがよぎるんだけど、今回はまず最初に波動として感じたのに、驚いたというか、「俺って結構敏感なんだ!」と思ったりしてました。

思い起こせば、真我体験の直後、ラマナの本を開いただけでものすごいエネルギーを感じたので、ひょっとしたら、あの時そういう関係の能力も開花されたのかもしれません。

でも、正直こういうのにあんまり敏感になるのもちょっとなぁ・・・。
適度にお願いしたいです。


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いきなりテストかい!

「あるがままに」を読んで、色々考えることも多かったんだけど、ガンガジとイーライについて、やっぱりあの二人は真我実現していないなと思ったり。

特にイーライは自分の愛欲(性欲?)に負けてしまったので、心が消滅して真我を実現したとは言い難い。

「人の振り見て我が振り直せ」と言いますが、私も当然自我に起因する色んな欲望があるわけで、「言うは安し、行なうは難し」だなと。

お釈迦様は最後に美女が現われて踊りを踊ったり、魔に世界の王にしてやると言われたそうですが、世界の王に関しては全然魅力を感じないけど、もし絶世の美女が現われたら、私はたぶんダメかなぁ~と思ったりしてました。

そしたら今日思わぬところでここ数年会ってない女友達にバッタリ出会ってしまった。

彼女は結構奇麗なんで、ちょっとうれしかったりして、そういう時にはやっぱり心がざわめくわけで、「新たな決意」だとか「進むために捨てる」とかえらそうな事を言ってたのに、あかんなぁと、自分の執着をまざまざと見せられた感じでした。

しかし、まぁ、テストが来るのが早いわ!昨日の今日やし。

新「新たな決意」で頑張ります






「あるがままに」を読み終えて

あるがままに―ラマナ・マハルシの教え あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
デーヴィッド ゴッドマン、 他 (2005/12)
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ようやくこの本を読みましたが、ちょっとクリアでなかったところがクリアになったり、やっぱりそうだったのか!と自分の体験を確認したりしたので、気合を入れて読んだかいがありました。

以前書いた私の“真我体験”はやっぱりサマディーでした。
イーライに言われた時はいまいち信用してなかったけど、本の中で「サマディーに入る時には恐怖と身体の震えが起こる」とあったので、それはまさしく私の体験! 
「ニルヴィカルパはあたかも洪水のように突然訪れる」等の記述を目にした時は、「そうそう!それそれ!」と言った感じでした。

さりとて当然ながらサハジャ・サマディーではないので、いつでも自我に戻ってきます。(まだまだいたらんMaxiです

「心は想念の束だ。」というのも、経験上非常に納得も得心もできます。あの時、想念の本質を見極められたのは本当に重要なことでした。それゆえ「過去は存在しない」というのも、「輪廻転生はない」とかも理解出来ます。

ハートに関しても、ラマナが力説したのは俗に言う「ハートチャクラ」ではなく、本来の意味の「中心」を意味し、真我そのものであるということ。
右胸の場所を指すこともあるが、それに集中するべきではないとはっきり書いてあったので、納得しました。

この点を誤解していて、ラマナがどうして身体の一点に集中するように言うのかが分からなかった。それだとラマナが否定している「一転集中法」になるのではないかと思っていたので。

真我の探求も沈黙のなかで感じるのが一番だけど、それだと分からない人のために「私は誰か?」の探求方法を教えたとあり、パパジは沈黙の教えで目覚めた人だと分かり、パパジの教えもよく理解出来ます。

ガンガジもその流れなので、私はそのシンプルなところが気に入ってます。

私はどうも瞑想法がダメですね。「私は誰か?」をやると、それをする「私」がいて、どうもいかん。

それより、“全てを止めて、今ある真我を見つめる(ゆだねる)”ほうが自我の意識が起こらないのでいい感じです。また、それがガンガジに習ったことだし。

ラマナも「全ての想念を止めて真我を見つめる」と言ってるので、私はそれで行く

進むために捨てる

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進むためには捨てなければならない。

進むというより、ゆだねる。全てをゆだねきる。

今までの霊的理解を一切捨てる。

なぜなら、全ては浮かんで消え行く想念の世界。

ただ、真理を見つめる。

新たな決意

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今回の旅行で導かれている私をひしひしと感じたので、ラマナの言う「内なるグル」にもっともっと真摯な態度で臨もうと思っています。

というか、「ずん!」と心の内に響いているので、すでにそれは私の中では確立されていますが。

私の身体はお寺で、中にはシヴァリンガムが祀ってあるいうイメージが浮かび、それを大事にしようと思いました。


今回のインド旅行ではアルナーチャラに行くというのに、何の期待も欲望もインド滞在に対する不安もなく、非常に落ち着いた、開かれた意識でした。

旅の安全等を神様にお祈りしたけど、アルナーチャラで何を体験するかは全てお任せしたので、バクティを体験してたような感じです。

それが続いているのかもしれません。

一緒!

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今朝、ストレッチをしてる時、ふと窓の外の青い空と雲が目に入り、その瞬間、「あっ!一緒や!なんや一緒やん!」と言いながら、笑ってました。

「私」と空と雲は一緒。

見かけは違うかもしれないけど、そのエッセンスは同じ。

という必要もないくらい“一緒”。

あ~、そーいうことだったのか。

“自然フェチ”な理由も分かりました。

自分を見てたわけだ。

真我は何処?

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タイトルは「ふっ」と浮かんだので、内容と関係があるかないかは責任もたん!

この間アルナーチャラ&ラマナ詣でにインドへ行ったわけですが、今回一番真我を感じたのは東京の雑踏の中。

インドから日本へ帰った後、友人達と会って旅行の話やラマナの話、また私の体験談とか話す機会があった。

その際、表面上は普通に会話をしてるんだけど、真我関係の話しをする時はいつも内面は深く、深く、まるで瞑想状態のように、内に沈んだような、まるで真我と一体となったような感じで、話しをしている「私」はペラペラのセロファン紙みたいな感じになります。

感情的な動きは何も無いのに、時おり込みあげるものがあり、言葉に詰まることもしばしば。場所が場所なら号泣してます。

一回はスタバ、もう一回はカフェみたいなところで、波動的にみたら、東京の町中だし、全然良くないところです。

ティルバンナマラィのような聖地じゃないからこそ、そんなとこで感じられる真我のインパクトは強いのかもしれません。

内なる静寂を感じることが出来るようになったのは、ひとえにバガヴァンのおかげなので、アルナーチャラとラマナのお導きに感謝、感謝です。


PS:しかしなんやね。至福体験をしたのもオレゴンのスタバだったし、スタバは私の“聖地”か?
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