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Homa(ホーマ)

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今日はカルンナマィのHOMA(ホーマ。ヒンズー教の火の儀式。)に行ってきました。

カルンナマィ(Sri Karunamayi):
http://www.karunamayi.org/HB-Home.html

聖者自身がマントラを唱えてするので、ものすごくパワフル

ちょっと言葉では言い表わせません。

合掌

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“Grace & Presence”

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シリウス・マハナンダさんが書かれていた、アルナーチャラとラマナアシュラムに行く意義の中で、Grace & Presence という言葉が使われてますが、これにはビンビンきました

『バガヴァン=アルナーチャラの最大の魅力である、その比類なき恩寵と臨在(Grace & Presence )というものを是非体験していただきたい・・それこそがアルナーチャラへラマナアシュラムへ訪問・滞在する最大の意義である』

*シリウス・マハナンダさんのブログ:
http://sirius02.blog6.fc2.com/
ウェブサイト:
http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/

神やそのイメージを表わす言葉は数多くあるけれど、言葉では表現できない、つまりいかなるコンセプト・概念にもおさまらないのがその実相なので、色んな言葉があります。

愛、無、空、宇宙、スペース、存在等々。

その中でも私は“Grace & Presence”(恩寵&存在)にすごく惹かれます

“Grace”は直訳すると「恩寵」ですが、私にとっては全てを包み込むような愛というか慈悲の心と導きのような感じ。そして、それには全てを委ねることができる。
またその“Presence”(存在感、臨在性)は圧倒的で、それ以外は何もないといった感じ。

ただただそれに身を委ねるばかりです・・・。

エゴの実相

ガンガジが言うには、エゴの正体は「I am this body.」(私は肉体である)という考え・思考。

全てはこの誤認から始まっていて、その上に様々な思考が積み重なっている。だから、「エゴ」というのは思考の束みたいなもんで、実際には存在しない。
しかし、誤認するからことから始まった悪癖、つまり浮かんでは消え行く思考や思いに意味づけをすることにより、とらわれが始まる。

だから、本来は存在しない亡霊のような「エゴ」をなんとかしようとするのは、雲を掴むようなはめになり、終わりのない無駄な努力だと思います。

また、本当は存在しないゆえ、「エゴ」はいつも自分自身に懐疑的で不安。人はそれを全て「自分」のものだと思うところに、苦しみがある。

ラマナ・マハリシの言うように、「私は誰か?」と「エゴ」を真に見つめるとそれは消え去ってしまう。
自己探求の道の素晴らしさはここにあると思う。

「五感」に集中する「瞑想法」はエゴに対抗するものだけど、自己探求はエゴ自体を消滅させることができるとこが、気に入ってます。

時間: “今”しかない!

エックハルト・トールの「パワー・オブ・ナウ」(邦題の「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」はようも、こんなあほなタイトルをつけたもんやで!と私は叫びたい!)を読んで「時間の概念」について、非常に勉強になった。

「未来」とか「過去」と言ったものは一切存在せず、ただ「今」があるだけ。
過去や未来に思いをはせることは出来ても、実際に過去や未来が独立して存在しているわけではない。
あたかも過去や未来が存在してるかのように、振舞っているが、全ては「今」この瞬間に過去や未来を頭で考えているだけ。
全ては頭の中で起こっているイメージに過ぎない。そして、そのイメージを作り出しているのは、この「私」。

トールが「クロックタイム」と言っていたけど、私の理解するところは、あんまり良い例えじゃないかもしれないけど、「今」という名前の箱に入っていて、それが「クロックタイム」を移動している感じ。

だから、たとえタイムマシンが出来て、過去に行ったとしても、それを体験しているその瞬間は常に「今」。

ガンガジの前で真我体験をしている時に、まざまざと自分の思いが生まれ、そして消えていくさまを体験し「観た」ので、その後、「私の過去」というのも、とどのつまりは思考の束に過ぎず、消え去るものでしかないと気づいた時、「過去」っていうのも実は嘘で、存在しない!ゆえに「俺には過去はない」と強く思ったもんです。

え~、「いちびってこんな事書いてるけど、こんなもん誰がみるねん!」っと自分で自分にツッコミ入れて終わります。

五感

シロさんのブログに書いたコメントですが、ここでも紹介!


ある禅のお坊さん曰く、

五感は鏡・・・今見え、聞こえ、触れ、嗅ぎ、味わっているものだけを感じている。

しかし、六番目の心だけは鏡になっていない・・・過去を悔やみ、思い煩ったり、未来を不安に思ったりする。

パワー・オブ・ナウ


最初これで終わったんだけど、これだけだとなんなんで私見をひとつ。

それゆえ、五感に意識をあてることにより、過去や未来に陥りがちな思考の連続から離れられ、“今”意識に到達できる。

様々な瞑想法や集中法は五感に意識をあてるものがほとんどです。
代表的なのは呼吸に意識をあてる呼吸法。心臓の鼓動に集中する。マントラやお経も音に集中するので、同様の働きがある。

エックハルト・トールは“インナーボディ”に集中するといいと言ってます。これも感覚に集中するといったもので、同じことかと。

シロさんのブログの話はおもしろいので、見てくださいね。
http://shiro1962.blog97.fc2.com/


“悟りを開いた人”に喝!by ラマナ・マハリシ

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かく言うパパジもラマナ・マハリシにはかなわない。


パパジがアルナーチャラに住んでいた時、ラマナの元で覚醒し、真我と一体となった。

その後今のパキスタン(?)地域で独立に伴う戦争が始まり、パパジの両親がその付近に住んでいた。

ラマナがパパジに、「お前の両親は大丈夫なのか?」
パパジは、「この世のことは全て夢・幻。両親も同じ。」と答え、一切動こうとしない。

ラマナは、「夢なら、助けてもいいじゃないか。」

その一言でパパジはすぐにパキスタン地域に行き、両親を助け、ラクナウに行ってサットサンを始めたそうです。

“スピリチュアルな生き方”に喝!by パパジ

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“スピリチュアルな生き方”のひとつに「起こっている全てに何らかの意味があり、学ぶためにある」と言うのがありますが、それについて思いだした、ガンガジから聞いたパパジの話。


パパジのサットサン(講演)であるインド人が、「私の家は自動車修理工場の2階で、うるさくて瞑想が出来ない。どうすればいいのでしょう?」と言った。
 
パパジは「この質問に答えがある人は?」と聞いたので、色んな人がすばらしい“スピリチュアルな解答”をした。それには意味がある等々。
ガンガジももちろん答えて、「心の中には静寂があり、周りに何が起こってようがそれは常に静寂。それに意識を合わせればいい。」

パパジの弟子みたいな人達が得意満面の顔で答えた後、パパジは、「どれも素晴らしい答えだけど、ちょっと違う。」

パパジはそのインド人に、「引っ越せばいいじゃないか!」。

真理はいつもシンプル

“真我体験”について 

私の体験が「真我体験」であるかどうか、異論があるかもしれませんが、ここはあくまで“Maxi's World”なんで、どうぞ御容赦を。
私自身はもう言葉や概念に対するとらわれはないので、なんでもあり。

体験後、思ったというか、感じたのは、イエス・キリストが聖書で言っている事は、真我と一体になった後感じた事を述べているんだなぁと。

隣人を愛せよとか色んなメッセージがあるけれど、人は概してそれをキリストの教えとして、しないといけない事だと受け取るけれど、それらは真我と一体となった後、自然と湧きあがるものであって、真我探求の方法ではない。それを実行したからと言って、真我を体験出来るわけではないんじゃないかと思います。
(イエス・キリストについて書くのは、私なんぞにはあまりにも恐れ多くて、手が震える思いですが、思っちゃったんだから仕方がない。)

私見ですが、ラマナ・マハリシとエックハルト・トールの真我体験の方法(というより、プロセスのほうが良いかもしれません)は同じじゃないかと思います。

ラマナは子供の時に叔父が亡くなり、「死」への恐怖感が沸き起こった。「自分が死ぬ!」という恐怖感から逃げずに、床に横たわり、それを体験した。そうしたら、「誰が死ぬのか?」という思いが湧きあがり、死ぬかもしれない「私」というのに意識を向けたら、それが実在しない事に気づき、真我に目覚めた。

エックハルト・トールは人生に絶望したのか、どういう理由かわかりませんが、死のうと思い、自殺を考えた。その時に「私」が「私」を殺そうとしていることに気づき、「私」が二人いる!ことに気づいた。そこでまた「私」が二人いることはありえない!ならばどちらかが嘘、幻だと気づき、真我に目覚めた。

ここまで書いて「はた!?」と気づいたのは、概して真我体験の後に見える景色を、皆述べているようで、そのプロセスを書いてはいない。

プロセスに重点をおくのではなく、あくまでも「真我」に重きをおき、それになりきりなさいと。愛、静寂、プレゼンス(存在感)等々。

プロセス自体は至ってシンプル。
『「私」という存在を見つめる』。
ただそれだけ。

しかし、その際たとえどんな感情が起こったとしても、一切逃げない覚悟が必要。悲しみであれ、絶望感であれ、誰もが持っていて、一番核となる「死」への恐怖感。それらから一切逃げずに体験する。

あるいは、真我への願望や期待、「あの世」や「霊・魂の世界」へのあこがれや期待も、「百害あって一利なし」。これらは全て「今」という瞬間から離れた、実在しないものなので、それらにちょっとでも意識があると、今ここにある「私」を見つめることの妨げになる。


こういう事を書いていると、どんどん出てきて止まらなくなって、色んな事が思い浮かんでくるわで、「こりゃぁ、本でも書かんとおさまらないな」と思ったり。

「ラベル」について思う

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shioさんのブログにあった「ラベル」の話ですが、
http://magdaleneshio.blog88.fc2.com/

日記の中で「ラベル」より、「諸行無常」の言葉に惹かれました。

全てが移りゆき、何事もそのままでいることは絶対ないんだけど、それをそのまま維持したい!との思いが現われ、それに意識を向けると、それが執着であり、とらわれることになる。

そんなことは百も承知で、「頭」では分かりきってることなんだけど、それが自分のコアの部分に触れると、もうそれにどっぷりはまってしまう・・・。

あーでもない、こーでもないと色々考えては、ため息をつくようなことをしてると、「あぁ、そうか!?」 とちょっと「身体」で納得。
(だから、これも全く無駄な時間のようで、それなりに必要なことであったと。)

この前日本に着いた時、なぜか心に浮かんだ「もう外部の刺激に一喜一憂する自分をやるのは、もう止めよう。」というメッセージに繋がっていたなぁと感じてます。

この世で存在する全てのものは、「諸行無常」なんだから、そんなものに意識を向けず、永遠なる存在に意識を向けるのが大事だなぁと。

また、それに意識が向かない時に生じる様々な事を身をもって体験してるので、改めてその重要性を再認識し、じっくり身体で感じました。

以前ガンガジ・イーライ事件の時に書いたけど、ガンガジが言っていた、「If you touch it, it will bite you!」(さわったら、噛まれるよ!)。

その通り

いててててて・・・・・。

ブログをやってる理由

shioさんのとこでコメントしたけど、
http://magdaleneshio.blog88.fc2.com/

こんな大事なことは自分のとこでも言っとかないと、との使命感に燃え、ここでも書いときます

最近ブログの更新をせっせとやってるのも、実は絵文字で遊びたいだけ

絵文字が主で、文章はおまけ。

ミクシイよりも絵文字が多いので、こっちのほうがずっと楽しい

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プチプチ真我体験!? ガンガジとの出会い

Ojai 1-2005


思い出したけど、“真我体験”の最初の最初はこっちかな?

ガンガジのテープ「Who are you?」を聞いた時、「これだこれこそ私が探し求めていたものだ」と思わず叫んだほどでした。

それまで色んな本を読んだり、ヒーラー、グル(アマチを含めて)等々色んな人に会ったりしたけど、全てがグルや神は偉大で私はいたらない存在でしかない。「教え」なり「瞑想法」をやればはるか彼方のいつか、それこそ今からあと何千、何万回生まれ変わったら、あるいわそのチャンスがあるかもしれないというような、途方も無い時間が掛かるものだと感じてました。

だから、「真我を悟るのは一瞬だ」、「瞑想法をやると、真我の周りをぐるぐる周るだけで、必要なし」と言ったガンガジに魅了されました。(長時間の瞑想は好きじゃないなぁ。足がしびれるし・・・。

初めてガンガジのサットサン(講演会)に行った時、他のグルと同じく「秘密の瞑想法」のようなものを教えてくれるのかと思っていたら、何にも無し!ただ質疑応答があるだけ。
*この段階ではまだ「瞑想法」みたいな道具というか手段を求めてました。

2回くらい行った後、私にはとてもじゃないけど200人前後の人前で自分をさらけ出し、己が胸のうちというか恥部みたいなことを、しかも英語で話すのは絶対に無理だ!と思ったので、マントラをくれるグルのとこに行ったり、クリヤヨガをやったりしてました。

しかし、半年ほど経った後、やっぱり心ではガンガジの自己探求の道が私にあっていると確信していたので、しぶしぶ再びサットサンに顔を出すようになった。

それでもサットサンでは手を上げて話す事は出来ず、じりじりしてる時、ガンガジのパートナーのイーライのウェブサイトに「リーラセラピスト」なるものを見つけた。
これはガンガジ・イーライからトレーニングを受けた人が、個人面談の形式でセッションをしてくれるというもの。
これなら出来ると思い、近くにいたジョンという人にセッションをしてもらいました。

今でこそミクシイやブログで、「感情を体験すればいい」、「自分を見つめる」、「自分と向きあう」とかえらそうな事をほざいてる私ですが、エニアグラムのタイプ5で、思考する事で全てを乗り切ろうとするタイプだったので、感情に意識を向けるなんてやったことがない人でした。

ジョンはすぐに私がタイプ5だと気づき、タイプ5のコアの感情の「恐れ」に意識を向け、体感するように言ったけど、私は、「俺には恐れは無いし、感情なんてめめしいもんは無い」と言い切ってました。頭の中で辞書を開き「恐れ」という単語を浮かべてただけ。

最初は「なんやこれ、あほみたいなセッションやなぁ」と思いつつも、「まぁ、しゃぁない。乗りかかった船や!」の精神(どんな精神やねん!?)で再び行きました。

2回目になるとちょっとは進歩し、イメージしたりして、「恐れ」の感情を体験してた時、ジョンが指摘したのは、

J:恐れを感じている「私」がいるだろうと。その「私」は恐れているか?
M:いや恐れていないし、そんな感情は無い。
J:それはなんだ?
M:それって、意識かな?
J:それが本当の自分。真我。
M:これが?
J:そう。
M:ちょっと違うんじゃないかなぁ?
J:いやそう。

こんな感じの会話が続き、「はた」と気づいたのは、意識についてどうのこうの言ってる私の内容は「あれっ?これって般若心経じゃん」ということ。「不生不滅、不増不減」みたいな。

でも、真我を体験したら何か特別なことが起きるんじゃないか!?という、期待していたような変化もないし、スピリチュアルな高揚感もないし、うーーん、ほんまかいなと思いつつも、ここで真我をチラ見したのかもしれません。

これ以降、思いや感情に意識を向けるのではなく、それらが生じる空間というかその源に意識をおくようになったのは確かです。


*写真はカリフォルニアのオハイバレー。ロスの北、車で3時間くらい(?)にある町で、昔ネイティブアメリカンがいてた、波動の高い場所。以前ガンガジのリトリートがあり、その時に撮った写真。2004年1月
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