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「見る」とか「観察者」という意識について

よく思いを「見る」とか「観察者」の意識を持つとか言いますが、その際に陥りやすいのは、「見えるもの」に意識をおきすぎるというか、見えるものや見る事に執着すること。

そうではなく、まず「在る」という意識というか感覚が大事かと思います。「在る」から「見える」。

見える景色ではなく、見ているものに意識を置く。

真我は存在するもので、“見える”ものではない。
プレゼンス(存在)の世界。

あくまでも真我に集中することが肝要。
見えるものはどうでもいい。

「見る」という行為があると、常に「見る人」がいるはずで、それは自我の世界。
自我を基盤として、瞑想法等でその上にどんな世界を作り上げても、しょせんは自我の遊びに過ぎないし、その集中が止まれば、常に自我の自分に戻ってくる。

確かパパジが言っていたけど、「至福を体験することではなく、私が至福である!」ということ。


それと「観察者」とは「傍観者」ではない。
分離感というか距離感を持つと罠にはまってます。
これこそが自我の世界、二元論の世界(私と他者というやつ)。

いい例えかどうか分かりませんが、私のイメージとしては、野に立ち、雨が降ろうが、嵐が来ようが、日が照ろうが、全てを受け入れ、体験しつつもただ立っているような感じ。
遠くからそういう状況を離れて見てる感じではないです。

悪い思いが浮かんだ時、ちょっとでも逃げたり、避ける感覚があればダメです。
また、いい思いが浮かんだ時、それに酔うのもダメ。
全てを突き放して見るのも違います。

意図する世界は一体感で、距離のある分離感ではないから。

ちょっと小難しい話しになったけど、でもそんなの関係ない


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“Grace & Presence”

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シリウス・マハナンダさんが書かれていた、アルナーチャラとラマナアシュラムに行く意義の中で、Grace & Presence という言葉が使われてますが、これにはビンビンきました

『バガヴァン=アルナーチャラの最大の魅力である、その比類なき恩寵と臨在(Grace & Presence )というものを是非体験していただきたい・・それこそがアルナーチャラへラマナアシュラムへ訪問・滞在する最大の意義である』

*シリウス・マハナンダさんのブログ:
http://sirius02.blog6.fc2.com/
ウェブサイト:
http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/

神やそのイメージを表わす言葉は数多くあるけれど、言葉では表現できない、つまりいかなるコンセプト・概念にもおさまらないのがその実相なので、色んな言葉があります。

愛、無、空、宇宙、スペース、存在等々。

その中でも私は“Grace & Presence”(恩寵&存在)にすごく惹かれます

“Grace”は直訳すると「恩寵」ですが、私にとっては全てを包み込むような愛というか慈悲の心と導きのような感じ。そして、それには全てを委ねることができる。
またその“Presence”(存在感、臨在性)は圧倒的で、それ以外は何もないといった感じ。

ただただそれに身を委ねるばかりです・・・。

エゴの実相

ガンガジが言うには、エゴの正体は「I am this body.」(私は肉体である)という考え・思考。

全てはこの誤認から始まっていて、その上に様々な思考が積み重なっている。だから、「エゴ」というのは思考の束みたいなもんで、実際には存在しない。
しかし、誤認するからことから始まった悪癖、つまり浮かんでは消え行く思考や思いに意味づけをすることにより、とらわれが始まる。

だから、本来は存在しない亡霊のような「エゴ」をなんとかしようとするのは、雲を掴むようなはめになり、終わりのない無駄な努力だと思います。

また、本当は存在しないゆえ、「エゴ」はいつも自分自身に懐疑的で不安。人はそれを全て「自分」のものだと思うところに、苦しみがある。

ラマナ・マハリシの言うように、「私は誰か?」と「エゴ」を真に見つめるとそれは消え去ってしまう。
自己探求の道の素晴らしさはここにあると思う。

「五感」に集中する「瞑想法」はエゴに対抗するものだけど、自己探求はエゴ自体を消滅させることができるとこが、気に入ってます。

時間: “今”しかない!

エックハルト・トールの「パワー・オブ・ナウ」(邦題の「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」はようも、こんなあほなタイトルをつけたもんやで!と私は叫びたい!)を読んで「時間の概念」について、非常に勉強になった。

「未来」とか「過去」と言ったものは一切存在せず、ただ「今」があるだけ。
過去や未来に思いをはせることは出来ても、実際に過去や未来が独立して存在しているわけではない。
あたかも過去や未来が存在してるかのように、振舞っているが、全ては「今」この瞬間に過去や未来を頭で考えているだけ。
全ては頭の中で起こっているイメージに過ぎない。そして、そのイメージを作り出しているのは、この「私」。

トールが「クロックタイム」と言っていたけど、私の理解するところは、あんまり良い例えじゃないかもしれないけど、「今」という名前の箱に入っていて、それが「クロックタイム」を移動している感じ。

だから、たとえタイムマシンが出来て、過去に行ったとしても、それを体験しているその瞬間は常に「今」。

ガンガジの前で真我体験をしている時に、まざまざと自分の思いが生まれ、そして消えていくさまを体験し「観た」ので、その後、「私の過去」というのも、とどのつまりは思考の束に過ぎず、消え去るものでしかないと気づいた時、「過去」っていうのも実は嘘で、存在しない!ゆえに「俺には過去はない」と強く思ったもんです。

え~、「いちびってこんな事書いてるけど、こんなもん誰がみるねん!」っと自分で自分にツッコミ入れて終わります。

「ラベル」について思う

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shioさんのブログにあった「ラベル」の話ですが、
http://magdaleneshio.blog88.fc2.com/

日記の中で「ラベル」より、「諸行無常」の言葉に惹かれました。

全てが移りゆき、何事もそのままでいることは絶対ないんだけど、それをそのまま維持したい!との思いが現われ、それに意識を向けると、それが執着であり、とらわれることになる。

そんなことは百も承知で、「頭」では分かりきってることなんだけど、それが自分のコアの部分に触れると、もうそれにどっぷりはまってしまう・・・。

あーでもない、こーでもないと色々考えては、ため息をつくようなことをしてると、「あぁ、そうか!?」 とちょっと「身体」で納得。
(だから、これも全く無駄な時間のようで、それなりに必要なことであったと。)

この前日本に着いた時、なぜか心に浮かんだ「もう外部の刺激に一喜一憂する自分をやるのは、もう止めよう。」というメッセージに繋がっていたなぁと感じてます。

この世で存在する全てのものは、「諸行無常」なんだから、そんなものに意識を向けず、永遠なる存在に意識を向けるのが大事だなぁと。

また、それに意識が向かない時に生じる様々な事を身をもって体験してるので、改めてその重要性を再認識し、じっくり身体で感じました。

以前ガンガジ・イーライ事件の時に書いたけど、ガンガジが言っていた、「If you touch it, it will bite you!」(さわったら、噛まれるよ!)。

その通り

いててててて・・・・・。
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