スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

セドナメソッドの7日間のセミナー

先週一週間、セドナメソッドのセミナーに行ってきました。

良かったです。

本に書いてあるリリースの仕方ではなく、ほとんど以前SFのセミナーでやった「5th Way」的なリリース。

簡単に言うと、全てを徹底的に受け入れ、リリースし、その後そのリリースした「私」をもリリース。
それゆえ、「私」にまつわりつく全ての問題が、その根っこからごっそり解放される。

最後のプロセスは、ラマナ・マハリシの「Who am I?」とすごく似てる。
だから、私にはしっくりくる。

一番の収穫?は、いい体験さえも何の未練も無く、手放すことが出来るようになったこと。

今回真我が愛であると体感した後、ハートから愛が泉のように湧き出るような感じでした。

シャワーを浴びた後、自分の身体を見たら、いつもと変わらない痩せこけた身体なんだけど、そこから愛が輝いているように見え、真新しい身体をもらったような、今までと全く違ったように見えました。

気分はまるで子供がおもちゃをもらった時のような、喜びにあふれる感じ。

私的にはこれまたすごい体験なんだけど、今回はそれさえも手放すことが出来ました。

そういう体験を超えた真我、あるいは、全ての体験のベースになっている真我というのが体験を通じて、しっかり分かったせいかもしれません。

以前の真我体験も素晴らしい体験なんだけど、それももう過去の遺物。
記憶のなかにあるだけ。

「今」この瞬間が何よりも素晴らしい。

Power of Now

スポンサーサイト

“真我体験”について 

私の体験が「真我体験」であるかどうか、異論があるかもしれませんが、ここはあくまで“Maxi's World”なんで、どうぞ御容赦を。
私自身はもう言葉や概念に対するとらわれはないので、なんでもあり。

体験後、思ったというか、感じたのは、イエス・キリストが聖書で言っている事は、真我と一体になった後感じた事を述べているんだなぁと。

隣人を愛せよとか色んなメッセージがあるけれど、人は概してそれをキリストの教えとして、しないといけない事だと受け取るけれど、それらは真我と一体となった後、自然と湧きあがるものであって、真我探求の方法ではない。それを実行したからと言って、真我を体験出来るわけではないんじゃないかと思います。
(イエス・キリストについて書くのは、私なんぞにはあまりにも恐れ多くて、手が震える思いですが、思っちゃったんだから仕方がない。)

私見ですが、ラマナ・マハリシとエックハルト・トールの真我体験の方法(というより、プロセスのほうが良いかもしれません)は同じじゃないかと思います。

ラマナは子供の時に叔父が亡くなり、「死」への恐怖感が沸き起こった。「自分が死ぬ!」という恐怖感から逃げずに、床に横たわり、それを体験した。そうしたら、「誰が死ぬのか?」という思いが湧きあがり、死ぬかもしれない「私」というのに意識を向けたら、それが実在しない事に気づき、真我に目覚めた。

エックハルト・トールは人生に絶望したのか、どういう理由かわかりませんが、死のうと思い、自殺を考えた。その時に「私」が「私」を殺そうとしていることに気づき、「私」が二人いる!ことに気づいた。そこでまた「私」が二人いることはありえない!ならばどちらかが嘘、幻だと気づき、真我に目覚めた。

ここまで書いて「はた!?」と気づいたのは、概して真我体験の後に見える景色を、皆述べているようで、そのプロセスを書いてはいない。

プロセスに重点をおくのではなく、あくまでも「真我」に重きをおき、それになりきりなさいと。愛、静寂、プレゼンス(存在感)等々。

プロセス自体は至ってシンプル。
『「私」という存在を見つめる』。
ただそれだけ。

しかし、その際たとえどんな感情が起こったとしても、一切逃げない覚悟が必要。悲しみであれ、絶望感であれ、誰もが持っていて、一番核となる「死」への恐怖感。それらから一切逃げずに体験する。

あるいは、真我への願望や期待、「あの世」や「霊・魂の世界」へのあこがれや期待も、「百害あって一利なし」。これらは全て「今」という瞬間から離れた、実在しないものなので、それらにちょっとでも意識があると、今ここにある「私」を見つめることの妨げになる。


こういう事を書いていると、どんどん出てきて止まらなくなって、色んな事が思い浮かんでくるわで、「こりゃぁ、本でも書かんとおさまらないな」と思ったり。

プチプチ真我体験!? ガンガジとの出会い

Ojai 1-2005


思い出したけど、“真我体験”の最初の最初はこっちかな?

ガンガジのテープ「Who are you?」を聞いた時、「これだこれこそ私が探し求めていたものだ」と思わず叫んだほどでした。

それまで色んな本を読んだり、ヒーラー、グル(アマチを含めて)等々色んな人に会ったりしたけど、全てがグルや神は偉大で私はいたらない存在でしかない。「教え」なり「瞑想法」をやればはるか彼方のいつか、それこそ今からあと何千、何万回生まれ変わったら、あるいわそのチャンスがあるかもしれないというような、途方も無い時間が掛かるものだと感じてました。

だから、「真我を悟るのは一瞬だ」、「瞑想法をやると、真我の周りをぐるぐる周るだけで、必要なし」と言ったガンガジに魅了されました。(長時間の瞑想は好きじゃないなぁ。足がしびれるし・・・。

初めてガンガジのサットサン(講演会)に行った時、他のグルと同じく「秘密の瞑想法」のようなものを教えてくれるのかと思っていたら、何にも無し!ただ質疑応答があるだけ。
*この段階ではまだ「瞑想法」みたいな道具というか手段を求めてました。

2回くらい行った後、私にはとてもじゃないけど200人前後の人前で自分をさらけ出し、己が胸のうちというか恥部みたいなことを、しかも英語で話すのは絶対に無理だ!と思ったので、マントラをくれるグルのとこに行ったり、クリヤヨガをやったりしてました。

しかし、半年ほど経った後、やっぱり心ではガンガジの自己探求の道が私にあっていると確信していたので、しぶしぶ再びサットサンに顔を出すようになった。

それでもサットサンでは手を上げて話す事は出来ず、じりじりしてる時、ガンガジのパートナーのイーライのウェブサイトに「リーラセラピスト」なるものを見つけた。
これはガンガジ・イーライからトレーニングを受けた人が、個人面談の形式でセッションをしてくれるというもの。
これなら出来ると思い、近くにいたジョンという人にセッションをしてもらいました。

今でこそミクシイやブログで、「感情を体験すればいい」、「自分を見つめる」、「自分と向きあう」とかえらそうな事をほざいてる私ですが、エニアグラムのタイプ5で、思考する事で全てを乗り切ろうとするタイプだったので、感情に意識を向けるなんてやったことがない人でした。

ジョンはすぐに私がタイプ5だと気づき、タイプ5のコアの感情の「恐れ」に意識を向け、体感するように言ったけど、私は、「俺には恐れは無いし、感情なんてめめしいもんは無い」と言い切ってました。頭の中で辞書を開き「恐れ」という単語を浮かべてただけ。

最初は「なんやこれ、あほみたいなセッションやなぁ」と思いつつも、「まぁ、しゃぁない。乗りかかった船や!」の精神(どんな精神やねん!?)で再び行きました。

2回目になるとちょっとは進歩し、イメージしたりして、「恐れ」の感情を体験してた時、ジョンが指摘したのは、

J:恐れを感じている「私」がいるだろうと。その「私」は恐れているか?
M:いや恐れていないし、そんな感情は無い。
J:それはなんだ?
M:それって、意識かな?
J:それが本当の自分。真我。
M:これが?
J:そう。
M:ちょっと違うんじゃないかなぁ?
J:いやそう。

こんな感じの会話が続き、「はた」と気づいたのは、意識についてどうのこうの言ってる私の内容は「あれっ?これって般若心経じゃん」ということ。「不生不滅、不増不減」みたいな。

でも、真我を体験したら何か特別なことが起きるんじゃないか!?という、期待していたような変化もないし、スピリチュアルな高揚感もないし、うーーん、ほんまかいなと思いつつも、ここで真我をチラ見したのかもしれません。

これ以降、思いや感情に意識を向けるのではなく、それらが生じる空間というかその源に意識をおくようになったのは確かです。


*写真はカリフォルニアのオハイバレー。ロスの北、車で3時間くらい(?)にある町で、昔ネイティブアメリカンがいてた、波動の高い場所。以前ガンガジのリトリートがあり、その時に撮った写真。2004年1月

真我体験 2

IMG_1122.jpg


同じ2005年の今度は8月、ガンガジ・イーライのリトリートでの話。

これは年2回あった10日間のリトリートの夏のやつ。350人くらい出席し、朝と午後質疑応答みたいなセッションがあった。
各自が自分の体験を包み隠さず、真摯に述べるのがスタイル。

以前にも各地である講演会やリトリートにも参加してたけど、350人近くの人の前で、マイクを持って自分の内面を語るのはとてもじゃないけど出来無いので、参加はするけど一回も話さず。

しかし、5月に体験した事は自分にとって大事な未知のことだったので、リトリートの半ばにガンガジが「じゃぁ、今まで一度もしゃべった事がない人は?」と言ったので、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、思い切って手を上げたら、ビンゴ!私の番

マイクを手渡され、立ち上がったら、今まで体験したことがないような強烈な恐怖感が湧きあがり、膝はガクガク震え、手も震え、立ち尽くしていました。その間、恐怖感の合間に恥とか、今まで心のそこに溜まってた、色んな感情が沸き起こってきたけど、ただじっと体験していました。

かなりの時間が経った後、ようやくしゃべりだしたら、声が震えている!それでも必死になりながら、自分の思いのたけをしゃべりました。

その時、自分がしゃべるたびにその「思い」が何も無いところから、湧きあがっては、まるで水蒸気のように消えていく様をまざまざと見せられ、体験させられました。

「思い」の本質を見たような、体験した感じで、自分がとらわれ、振り回されている「思い」というのは実は「何も無い。実体の無いもの。」だと気づきました。

ししゃべっているうちに恐怖感も体験しつくしたのか、消え去り、自分が解放されたような、生の自分をさらけ出したような感じで、ガンガジとイーライが私の話に対して返答している時、ガンガジとイーライが視界には入っていて、二人のイメージはあるんだけど、同時に別の意識では「二人」と「私」という感覚はなく、ただただ無限に広がる空間があるだけ。そんな感覚でした。

そのセッションの後、スターバックスに行き、アイスチャイを片手に読みかけのラマナの「不滅の意識」を読み始めたら、一行も読まないうちに、ものすごいエネルギーが来て、本も持てないくらいでした。「なんや、これわ?」と思い、一旦目を本から離し、再度読み始めたら、全く同じ現象。数回トライしたけど、同じ状態。
気合を入れて、再び挑戦し、必死になって2行読んだところでギブアップ

今思えば、ラマナに本を通して祝福して頂いたと勝手に思っています。

『高揚感にひたっている時、店内にスタイルのいいおねえちゃんが入ってきて、レジに進む姿を何の意識も無く、パブロフの犬のように反応し、ぼーっと目が追っている自分に気づき、「あほやなぁ、こいつ!なにやっとんねん?!」と笑ってました。無意識下でもボケとツッコミのわざがでるなんてすごいでしょ!』

その後のリトリートの間にも、「私という存在の実態は愛だ!」とか感じたけど、アパートに帰ってからのほうが実感としてありました。

5月の「心が止まる」状態よりもかなり強烈で、周りの空間も止まっているような、心の中でオームサウンドが響いているような感じがずっと続き、最初の数週間はすごかったです。徐々にそれはおさまりましたが、数ヶ月続きました。

以前のような、何かを求める焦燥感みたいなもの無く、全てが止まり、静寂があるだけ。

瞑想にしてもただ座るだけで、悟りや真我を求める「私」はいない。

その「私」がいないので、スピ系の本は一切読めなくなったというか、読む気にならなくなった。
試しに本を手に取っても、開く気がおこらず、その瞬間にも心は深く深く、内へ内へと向うだけ。

さすがに今は「オームサウンド」や「周りの空間が止まる」感じは無いけれど、「心は止まった」まんまです。

ガンガジ・イーライは「真我を体験した後、それが深まっていく」と言う捉え方をしますが、私はこれが気に入ってます。
日々の生活の中で色んな「テスト」があり、それにより深まって行くような。

「私」が全てを統括していると思っていたけど、それは間違いで、真我が全てを維持しているということをはっきりと体験出来たような気がしました。
私は自分が車の運転手だと思っていたけど、実は助手席に座っていただけ、みたいな感じ。



真我体験 1

IMG_1121.jpg


2005年に私が体験した事は、その後の人生に多大な影響を与えることになった!と、死ぬ時にはたぶん言うだろうなぁ・・・。
まだまだ先の話ですけど。

という事で、真我体験(今度は“プチ”じゃないっす!)

2005年の5月にガンガジ・イーライの弟子による、エニアグラム・NLP・エリクソン催眠療法を使った自我の覆いを取り払う事を目的としたリトリートに行きました。

10日間主にエニアグラムを使って、自分のとらわれを見つめ、様々なゲームにより、深く自己を見つめるような感じかな。

最後の日に願望というゲームをしました。これは自分が望む事を3つ決めて、それが達成した時をイメージし、体験するというもの。その時に何を感じるかを探るのがポイント。
私は完全な健康、悟り、(もう一つは忘れた!たぶんパートナー?か自由?)をやったけど、それらを達成した時に私は心の平安を感じた。
このゲームは自分の外に願望実現を求めるけど、真に欲しているものは内にあるという事をきづかせるのが目的。

しかし、イメージしてる時に、私は自分の人生を、ほんの一瞬の時間に見たような、経験したような感覚に襲われた。
その時に、「俺が本当にやりたい事は、『もうこのような願望実現に終始する人生は送りたくない!』ということだ!!!」と心の奥底から湧きあがって着ました。

その後グループのリーダーの女性に行って、私の体験を話し出したら、号泣
体面を意識するほうなのに、回りに100人ほどの人がいてるのもおかまいなしに、ただただ心から泣いてました。

翌日アパートに戻って、ブラインドを上げて外を見ると、今までと全く違う感覚。
目には全ての景色が入っていて、認識しているけど、それを見ている「自分」がいない。

「心が止まった」というのがその時の感覚に一番近いです。

この感覚は何をしててもずぅっーとありました。御飯を食べようが、テレビを見ようが、全く同じ。
でも、色んな感情は以前と変わらずありました。いいのも悪いのも。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。